萌えの本質は「じらし」2012年09月02日 18:54

 萌えの本質は「じらし」にあると思う。
 萌えという言葉が定着する前から、「可愛い女の子」の登場する漫画は存在した。その中でも少年漫画では「サービスシーン」が盛り込まれていたし、少女が性対象の成年向け漫画すらあった。しかし、その初期に萌えの対象になったのは、少女向け漫画や子供向けアニメの登場人物であった。これは、諸説あるその由来のうち有力なのが少女漫画『太陽にスマッシュ』の主人公「高津萌」だったり、教育テレビアニメ『恐竜惑星」の主人公「鷺沢萌」だったりすることからも裏付けられる。
 無論、少女漫画や子供向けアニメに「サービスシーン」は無い。可愛い行動で媚びを売ることすらない。そこにあえて目を付ける事が萌えの新しい概念であったと記憶している。可愛さを全面に出した漫画に対し、「それは萌えじゃねーよ。」というツッコミをよく見たものである。「本当は可愛いんだろうな」という気持ちを楽しむのが萌えであった。
 これは、PostPet開発のきっかけになった、吉田戦車の「やらずにすむゲームはないかな?」の思想につながると思う。ゲーマーでない方の中にはゲームは発売までが一番楽しいという人も多いと思う。「プレイしたら楽しいんだろうな」という、その期待感を胸に秘めている間が楽しいのである。萌えに置き換えると「この子の媚びたシーンがあったら、さぞかし可愛いのだろうな」という期待感である。アインシュタインの言葉を借りれば「空想は知識よりも重要である。知識には限界がある、空想は世界を包み込む。」という事である。
 最近はあからさまなサービスシーンではなく、普通の行為によって可愛いさを想像させるテクニックが発達している。また「属性」という名の、「これさえ描けば想像が広がる」というキーも整理されている。門外漢の人が見れば普通の話でも、萌えにとりつかれた人が見ると、妄想をみゅんみゅん引き延ばされるのである。その妄想は2次創作という形で表現されることもあるが、基本的には「普通の話」あってこその妄想となる。萌えが流行し、絵柄は明らかに萌え系の成年向け漫画が量産されても、パンチラすらない萌え漫画が強く指示されるのは、このためではないであろうか。
 …とか色々書いたが、最近は萌えが氾濫し、「まっとうに可愛いもの」も萌えの範疇に入ってしまっている気もする。で、言葉は変わっていくものですが、その本質は変わらないのではないかと思います。

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